吃音を受け入れる

回避反応を抑制するには、「吃音を受け入れる」ことが必要だと思います。「吃音を受け入れる」とは、どういう意味かと言うと、「自分は吃音であることを認める」ことだと思います。

だって、どもりだから。しょうがない。

吃音で悩んでいるわけだから、自分は吃音であるって、認めていることと同じではないか?と思う人もいるかもしれません。しかし、「吃音で悩んでいる」というのは「吃音を認めている」ということではありません。
「吃音を認めている」ならば、吃音で悩む必要などありませんから。

例えば、足の骨折。骨折しているのがわかれば、「なんで走れないんだ~」って思いませんよね。だって、足が骨折してる、って自分で認めてるから(自分でわかってるから)骨折している人は、「なんでふつうの人みたいに歩けないのか?」って、ふつう考えませんよ。

吃音者の場合は「なんで、みんなスムーズに話せるの?なんで、私はできないの?」「なんで、みんなは言いたいときにしゃべれて、私は言いたいときに言葉が出ないの?」「当たり前のことができない。。。なんで吃音は不幸なのだ?」というケースが多いと思います。
「吃音を受け入れる」っていうのは、むしろ「だって、吃音だから。しょうがないじゃん」という言葉に尽きると思います。開き直りに近いかもしれません。

スムーズに話せないのは・・・どもりだから。言いたいときに言葉がでないのは・・・どもりだから。当たり前のことができない・・・どもりだから。・・・それで、いいと思います。どもりだから。。しょうがないでしょう。。。どもりだから、人間失格ではなく。どもりだから、生きる価値はない。ということでもなく、どもりだから、うまく話せない。。。・・・それだけのことです。

 

自分を許す

「吃音を受け入れる」っていうのは、「どもっている自分を許す」という感覚に近いと思います。吃音者の多くは、「どもり(吃音)」が嫌いと思っています。当たり前と言えば、当たり前なんですが。

でも、考えてみてください。おかしいと思いませんか?足を骨折している人は、骨折している足を守りますよね。肝臓が悪い人は、肝臓を守るような食生活など肝臓を労りますよね。でも、吃音者は自分が吃音なのに、吃音を嫌っている。。。おかしいと思いませんか?

「吃音を受け入れる」とは、嫌っている自分の吃音を「許す」ということと同じことだと思うんです。吃音の自分をどうか、好きになって下さい。醜い吃音で、ときには激しくどもってしまう、自分をどうか、許してやってください。どもってしまう自分の声をどうか許してやってください。

「どもってしまう自分自身を許す」ことが「吃音を受け入れる」ことになるのだと思います。